観光地ではない、ふつうの住宅街を歩いていると、現代の街並みにはあまりそぐわないものがあちこちに見えてきます。建物のすき間に押し込まれた小さな祠。飲食店の入口に置かれた塩の小山。工事現場の真ん中に、しめ縄を巻かれてぽつんと残されている古木。まわりはどんどん作り替えられているのに、その木だけは残されています。
これらは見落とされた跡ではありません。日本は、民俗的な伝統が日常の都市生活のなかにそのまま残った、めずらしい場所のひとつです。何を見ているのかが分かってくると、街の見え方が変わってきます。
これらは観光客向けの演出ではありません。ふつうの人びとがふつうに守っている、長い伝統に根を持つささやかな営みです。
なぜ消えなかったのか
近代化のなかで、多くの社会では、産業化や都市化が民俗の連続性を断ちました。人びとが土地や共同体から切り離されたとき、知識もそれと一緒に持ち去られていったからです。
日本も近代化は急速でしたが、いくつかの理由で、断絶が完全には起こりませんでした。
ひとつめは、もともと民俗が農村だけのものではなかったということです。神社の作法、季節の行事、民俗的な振る舞いは、産業化が加速する以前から、すでに江戸の商人や職人の暮らしの中に組み込まれていました。都市が成長したとき、そのリズムも一緒に成長しました。
ふたつめは、多くの慣習が、場所を移しても続けられる形に整えられていたことです。節分の豆まき、お盆の墓参り、七五三のような行事は、特定の風景を必要としません。マンションでも、デパートでも、郊外住宅地でも続けることができ、実際にそうなりました。
みっつめは、「特定の場所には特定の存在が宿る」という前提が、長く生き残ったことです。神社や聖なる木をなんとなく取り除く、というわけにはいきません。法律のためというよりも、その場所との関係が「実在する」と感じられているからです。これが、何世紀にもわたる開発のなかで、結果として保存装置として働きました。
入口の盛り塩
盛り塩(morijio) — 飲食店、商店、ときには家の入口に置かれる小さな塩の山 — は、商業の現場に民俗が組み込まれていることを示す、もっとも分かりやすい例の一つです。
塩は神道の伝統において清めの性質を持つとされてきました。入口に置くことで空間を清め、穢れを退け、よいものを招き入れるという発想と結びついています。神社で奉納される塩、相撲の取組前にまかれる塩、葬儀で用いられる塩などとも、根本の論理は通じています。
入口に塩を置く店主は、その背景にある神道の理屈をいちいち言葉にしているわけではないかもしれません。ただ「そういうものだ」として続けています。理由が完全に語られなくなっても、仕草自体は意味を運び続けています。
祭りという共同体の暦
日本の祭り(matsuri)は、単なる文化的な娯楽ではありません。地域と、その地域の神社に祀られている kami との関係を保つための仕組みでもあります。
多くの祭りでは、kami が神社から出され、神輿(mikoshi)に乗せられて、地域内を練り歩きます。守りの気配がその領域を巡り、地域との関係を新たにする、という仕掛けです。練り歩く道のりは、その kami の領分の地理をなぞっています。
これらの祭りの多くは、近代化、戦争、再開発を越えて、何世紀も続いてきました。新しい街路に合わせて経路が調整されたこともあれば、参加者の顔ぶれが変わったこともあります。それでも、「人びとが集まり、神が出かけ、地域が更新される」という骨格は変わっていません。
工事現場のなかの神木
工事中に保存される御神木のあつかいは、現代日本のなかで生きている民間信仰のもっとも目立つ例のひとつです。
神社や、長く地域の中心であった場所に立つ古木は、しばしば「宿るものがある」存在として扱われます。開発がその木の周辺で必要になったとき、木を取り除くのではなく、木を中心に据えて構造を組む例も少なくありません。やむを得ず移動する場合には、宿る kami に丁寧に仁義を切るような儀礼が行われることもあります。
すべての場所でこのように扱われるわけではありませんし、日本でも木は伐られています。それでも、こうした扱いが一定の頻度で行われていること、儀礼が真剣に営まれていることは、「ある場所にはある存在が宿っており、確認なく取り除けば結果が伴う」という感覚が、いまも続いていることを示しています。
旅人にとってどう意味するか
街なかでこうした痕跡に出会うとき、それは整えられた「文化遺産展示」ではありません。人びとが、有用だから、意味があるから、あるいは単に「そういうものだ」と感じてきたから残っている、生きた伝統の痕跡です。
役に立つから残っているという面もあります。盛り塩、季節の祭り、手入れされた神域 — これらは地域に何かをもたらしています。時間に印をつけ、共有された注意を作り、ただ機能だけで扱われたかもしれない場所との関係を維持しています。
意味があるから残っているという面もあります。入口に塩を置く人、祭りに参加する人、近所の小さな祠を守る人びとは、演じているのではなく、何かを続けています。
これらに気づくいちばんの方法は、観光ルートから外れた住宅街、古くからの市場の通り、駅から神社へ向かう道などを、ゆっくり歩くことです。何を見ているかが分かれば、痕跡はそこかしこにあります。
ずっとそこにあったのです。多くの旅人は、見ていることに気づいていなかっただけです。