「日本の神様は八百万」という言葉を、どこかで耳にしたことがあるはずです。
数の大きさだけが先に来て、では実際に何人いるのか、どこにいるのか、どんな存在なのか——そのあたりは、あまり語られないまま残されていることが多いかもしれません。
このページは、ひとりひとりの神様について書く前に置いておきたい入口のような記事です。「神様を分類する」ためのものではなく、神社で誰かに会う前に、その世界の広さをすこしだけ感じてもらうためのものです。
八百万は「8,000,000」ではない
「八百万」は文字どおりに読めば 800 万ですが、ここでの意味は具体的な数ではありません。
古い日本語で「八」は、しばしば「数えきれないほど多い」ことを表す言葉として使われました。八重、八雲、八岐——これらの「八」も、正確な数を指しているわけではありません。
八百万の神々という言い方は、神様の数を競っているのではなく、いたるところに、数えきれないほどいるという感覚を伝える言葉です。
ひとりの絶対的な存在を中心に置くのではなく、たくさんの存在がそれぞれの場所にいる——その世界観そのものが、この言葉に込められています。
神様はどこにいるのか
八百万という感覚をいちばん近くで感じられるのは、有名な神社の本殿よりも、むしろ日常の周辺かもしれません。
古い物語や信仰の中で、神様は次のような場所にいるとされてきました。
- 山に
- 川や滝に
- 海に
- 大きな木や岩に
- 田んぼに
- 道の辻に
- 家のかまど(台所)に
- 便所に
便所の神様まで含まれているのは、変わったことではありません。生活のあらゆる場面に、それぞれを見守る存在がいる、という前提のうえに神社の世界は立っています。
大きな神社で祀られている有名な神様だけが「神様」というわけではないのです。
古事記と日本書紀
神様の物語が文字として残されている、いちばん古い書物がふたつあります。
- 古事記(712年)
- 日本書紀(720年)
どちらも、宮廷でまとめられた古い伝承を書き残したものです。同じ神様の物語が、両方に登場します。
ただし、ふたつの書物では、同じ神様の物語が少しずつ違って語られています。
- 名前の表記が違う
- エピソードの順番が違う
- 別バージョンが並べて記されている(日本書紀)
このシリーズでは、どちらかを「正しい」とは扱いません。ふたつの伝承が残っている、というそのままの状態を尊重して紹介していきます。
大まかな住みかのちがい
神様の世界には、ゆるやかな「住みかのちがい」があります。これは厳密な区分ではなく、物語の中での居場所のようなものです。
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高天原(たかまのはら) に住むとされる神様たち
天上の世界。アマテラスやツクヨミなど、空や光と結びつく神様が語られる場所です。 -
葦原中国(あしはらのなかつくに) に住むとされる神様たち
人が暮らす地上の世界。オオクニヌシをはじめ、土地・国づくりに関わる神様たちが活躍します。 -
自然そのものに宿るとされる存在
特定の山、川、岩、木に宿る神様。名前を持つこともあれば、土地の人だけが知る存在のこともあります。
これは「分類」というより、神様たちがどこを舞台にした物語に登場するかのちがいです。
このシリーズで会いに行く神様
「神社で会う神々」シリーズでは、神社で実際に出会う頻度が高い神様を、一柱ずつ紹介していく予定です。
- アマテラス(伊勢神宮の主祭神)
- スサノオ(八岐大蛇を退けた弟の神)
- オオクニヌシ(出雲大社、縁結び)
- 稲荷(ウカノミタマと、その使いの狐)
- ハチマン(八幡神社)
- コノハナサクヤヒメ(富士山と桜)
- ツクヨミ(月の神)
- エビス(七福神の一柱)
- イザナギ・イザナミ(国生みの夫婦)
- ニニギ(天孫降臨)
- サルタヒコ(道案内の神)
- ベンザイテン(七福神、水と芸能)
それぞれの神様には、それぞれの人柄と物語があります。完璧な存在として描かれるのではなく、ときに失敗し、ときに傷つき、ときに笑われる——そういう神様たちです。
ひとりひとりに会いに行く前の地図として、この記事を置いておきます。
神社に行く前に
神様の名前や物語を知らなくても、神社を訪れることはできます。手を合わせるのに、知識は前提ではありません。
参拝のしかたそのものについては、神社の参り方や、なぜ小さな神社が多いのか、稲荷が本当に意味するものも合わせて読めます。
ただ、その場所に祀られているのが誰なのかを少しだけ知っていると、目の前にあるもの——お社の名前、奉納された絵馬、狛犬や狐の像、参道の作り——の意味が、すこし違って見えてきます。
このシリーズが、その「すこし違って見える」感覚への入口になれば、と思っています。